【コラム】清掃を通して「美」を考えてみた
今回もAkiraのコラムになります。
実は私、過去に神社仏閣で2年ほど見習いとして修行をしておりました。
とにかく毎日清掃をします。
建物の清掃や庭仕事や料理などを通して精神的向上を図る研修プログラムのような日々を送ります。
今回は実践を通して考えた「美」について綴っていこうと思います。
目次
感性
まず清掃を通して感性が磨かれました。
空間がきれいになると心地よいものです。
そういった体験を繰り返していくと、いつしか汚れている場所が少しずつ嫌になってきます。
以前は汚い空間にいようが特に気にも留めませんでした。
しかし、「美しい」と「汚い」では「美しい」方がより多くの人に喜んでもらえます。
そういった意味で日々「美しい」を意識することは、「どうすれば他の人がより喜んでくれるか」を考えることです。
勿論、社会生活の中でも他者の幸せを思いながら仕事に励むこともあるでしょう。
しかしあの期間ほど「美しい」つまり「他者に対する思い」を貪欲に意識しながら生活したことは今までになかったと思います。
判断力
次に、清掃を通して高い価値観で判断する力が養われました。
庭掃除をしていたときのことです。
「今日は庭に落ちている松葉を取り除いて下さい」
いつもこのような支持を先輩からもらって清掃に励んでいました。
ある日「今日から寒い時期に入ります。
お客様をお迎えする上で、庭が肌寒い見た目にならないよう、落ちている松葉は取り除かないで下さい」と指示をもらいました。
しかしいつものクセで松葉を取り除いてしまうのです。
このことから「落ちた松葉はどういう場合において不要なのかということを認識していなければ清掃は成立しない」ということを学びました。
換言すれば、「ゴミをゴミと認識していなければ私たちは美化に取り組めない」のです。
これは至極当たり前のことなのですがとても重要なことです。
仕事においても実生活の上でも、私たちは「すべきこと」と「しなくてよいこと」、または「必要なもの」と「不要なもの」を瞬時に判断しています。
そしてその基準は「経済的効果」だったり「人気」だったり、はたまた「欲望」だったりと様々なのです。
「このプロジェクトは正直、自分にとって好きな案件ではない。嫌なことだ。しかし会社に大きな利益が見込めるためこのプロジェクトに取り組もう」
例えばあるサラリーマンがこのような判断で行動をとったとします。
「欲望」を基準にすると、自分にとってこのプロジェクトは「不要」だが、「経済的効果」を基準にすると「必要」となり、自分にとって「経済的効果」に価値観を感じているためこのような行動をとったということになります。
清掃を日々習慣化していくと、いつしか判断の基準として「美」の価値観が強くなってきます。
それは「どうすれば他の人がより喜んでくれるか」を第一の判断基準として生活することと同じなのです。
人間らしさ
最後に清掃を通して人間らしさとは何かに気づきました。
感性や美に対する価値観がなくても、私たちは生きていけます。
但し、より「人間らしく」生きていくには「美」は不可欠と言えるでしょう。
私は動物に比べて、人間とは本当に醜い存在だと思っていました。
動物はモノを無駄にしませんし、不平不満もいいません。
反面、動物は道ばたで糞尿をします。
人間と動物の違いはここにあります。
人間には「美」や「醜」が何かが分かりますが、動物にはそれが分かりません。
「人間は醜い」
それはそれで悪いことではありません。
なぜならその時点で「何が美しいか」を描けているからです。
問題は、「美」と「醜」の判断がつかないことです。
「人間とは何か」
私はこんな大きな問いに答えられる人間ではありません。
しかし少なくとも言えることは、
「動物は(今の時点で)美が何かを判断できない(と思われる)」
ということです。
こうした状況から少しでも離れていくことが、より人間らしい人間を育むことになるのだと思います。
本日はここまで♪
また読んでくださいね!